「ぼくはあるいたまっすぐまっすぐ」
ただ歩いてみたくなり飛び出した
やぶからぼうに何も決めず、ただ歩く 歩く
見慣れた景色 見慣れた道
ここには何も残ってないとわかるから、ただひたすらに、歩く 歩く
::大通り
大通りは明るくて広い
道は真っ直ぐで、行き交うクルマの音と人々
自分の存在が空虚に感じられ、悲しくなる
::細い道
深夜の闇にのまれた細い道
こんな道は初めて通る道ばかり
自分の足音だけが高らかに響く
寝静まるたくさんの家 家
確かにここにも他人は存在しているはず
しかし俺はそれが信じられないほどに、自らの孤独を思い知る道
::T字路
右か左か それがT字路
直進はできない
曲がった道がもといた場所に近づくか、それとも遠ざかるか
信じるは自分の足だけ 気が向くほうにまた ひたすら進む
それが正しいか誤りか、すぐにはわからない
でも、後戻りはしない 進んでいればいつか正しい道を選んだことに気付けるかもしれないから
::十字路
前に進むことができる しかし曲がることもできる
選択にはたくさんの可能性がある
五叉路、六叉路 選択の幅が増えるにつれ、選択を過った場合の他の可能性を放棄したことへの後悔は深まる
でも直感を信じて進むしかないことは、わかっている わかっているけれども
::行き止まり
袋小路に迷いこみ、前には進めなくなる
自然の摂理として自らの足は停止せざるを得ない
なぜ止まったのだ
本当に前にはもう進めないのか
注意してもう一度前を伺っても やはり 進めない
だから、行き止まり
戻るしかない
戻りたくはなくとも
::公園
歩いているとたくさんの公園をみかける
こんな細い道にも こんな大きな通り沿いにも
休むことを許される中継地点
戻るわけでもなく進むこともなく ただ、休む
次に何処へ行こうか、それとも帰ろうか
そんな思案に時間をつぶすくらいなら、歩き続けたいと俺の足は考える
気がつくと、本当に知らない場所に俺はいる
ここはどこだ
立ち止まる
ここがどこかは知らないが、適当に歩いてきたこの行程
俺がいまここにいるのは、偶然ではなく、いまここに来る為に今まで歩いていたのかもしれない
だとしたら、俺がいまここにいるのは、やはり俺がここに来る必要があったからなのだろう
::標識
どんなに道がわからなくなっても、狭い東京、標識をみればどっちがもといた場所なのかわかってしまう
駅がある
東池袋
なんだ、たいして遠くまできたわけじゃないじゃないか
愕然とした
もう帰ろうか
::帰り道
帰ると決めたら、頭は活発に動き出す
どの道が一番近道か どの道にでれば自分の知っている道にでるか
行きはよいよい帰りはこわい
いや違う
帰りは簡単だ
戻るのは進むのより何倍も効率的で、楽だ
だから人は、何につけてもすぐに元に戻ろうと考えがちになるのだろう
帰りはじめると、途端に足が痛みだす
高まっていた気分はまた ふさぎ込む
帰っていいのだろうか
そこにはもう自分の居場所はないのだとわかっていても
::道に迷う
来る時は適当に歩いていて、道に迷いっぱなしの状態だったにもかかわらず、心には余裕があった
しかし帰り道で迷うと何故か非常に心細くなる
待つ人、場所が恋しくて泣きたくなる
だから、戻るのは嫌なんだ
できることなら進み続けたかった
そう、フォレストガンプのように、ただひたすらに
本当は歩き始める前からだいたいわかっていた
でも出鱈目に歩いてみて、いま本当にわかった
俺が今まで22年間していたのは、さんぽ、だったのだ
無限通りある、さんぽの道すじを、俺はいまやったように、出鱈目に適当に、時に行き止まったり立ち止まったりしながら、毎日同じ場所に戻ってきたりしながらも
ちょっとずつ そう、ちょっとずつ
それでも前に進んできて、いまここにいるのだと
これから進んでいく未来も、どんなに遠くまで来たと思っても実はほとんど同じ場所にいて
けれどやっぱり少しは前に進んでいた、みたいな
果てしないさんぽの途中に
いま俺はいる
いまの俺が存在する
ただ一つの俺が
posted by kota at 04:06| 埼玉 ☀|
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